「――あ、雪だよ、お兄ちゃん」
二人で買い物に行った帰り道。
はらはらと舞い落ちる白い――白い雪をその手で受けて、可憐は呟いた。白い息と共に。
可憐に言われて、空を仰ぎ見た。
確かに、薄曇りの空からは、白い雪が舞い降りてきていた。
――天使の祝福――
誰かが、雪をそう呼んだことがあった。
実際にそのとおりだと思う。
でなければ、雪に覆われた街の景色が、これほど幻想的に映る筈がないだろう。
ただ、天使というのは意外に身近なところにいるものだが・・・
「・・・ああ・・・雪だな」
この街にこれほどの雪が降るのは、久しぶりのことだった。
そう・・・以前は――
あの時のことは、よく覚えている。何故なら、それは――
「――お兄ちゃん、今、何を考えてる?」
可憐がそう訊いてきた。
おそらくは、彼女も今、自分と同じことを考えている筈だ。
従って、そのままを口に出した。
「たぶん、可憐と同じことだ」
すると、可憐はにっこりと笑った。そして、どこか遠くを見つめて、何かを懐かしむように――
「――あの子、元気にしてるかなぁ?」
あの子――
それが何のことを指しているのか、分かっていた。
やはり、可憐と自分は同じことを考えていたのだ。
「きっと元気にしているさ」
「そうだよね・・・」
「今頃は、大空を飛び回っているんじゃないか」
あの、傷ついていた羽を優雅に広げて――
「うん・・・きっと、そうだね」
その日、可憐は空を見ていた。
開け放たれた窓の外――どこまでも広がる空を、ただ見ていた。
別に何か目的があったわけではない。
だが、その澄みきった青い空には、目を引きつける何かがあった。
その中を――
一羽の小鳥が優雅に舞い踊っていた。
楽しげにさえずりながら、ただ青い空の中を、自由に――自由に・・・
「・・・いいなぁ・・・可憐も空を飛んでみたいなぁ」
可憐は嘆息と共に紡ぎ出した。
――空を飛ぶ――
誰もが一度は見る夢ではないだろうか?
そして、その例に漏れず、可憐もまたそう願ううちの一人だった。
あの青い空の上から見下ろす世界は、いったいどのような景色なのだろうか?
きっと、息を飲むほど綺麗な景色に違いない。
何の確証もなくとも、可憐はそう思い込んでいた。
――だから――
だから、鳥たちは地上ではなく、空で生きることを選んだのだろう。
この時すでに、可憐の頭の中には、ダチョウやニワトリのことは入っていなかった。
ただ、大空を優雅に舞う、その小鳥一羽が彼女の心を占めていたのだ。
――と。
その時。
「――あ!?」
その小鳥が、さらに上空から舞い降りてきた大きな黒い鳥――カラスだろうか――に襲われた。
「ダメー!」
可憐は思わず叫んでいた。
だが、だからといって何かができるわけでもない。
ただ見つめることしかできない可憐の前で、小鳥はその黒い鳥に襲われて、地上に向かって落下していった。
そして、黒い鳥は、まるで獲物を獲り損ねたことに舌打ちするように、一周だけその場で旋回すると、また違う方へと飛んでいった。
「――大変」
可憐は慌てて駆け出していた。
そうせずにはいられなかった。
「――ちょっと、可憐?」
「――え?な、何、お母さん」
声をかけられた瞬間、心臓が一際大きく脈打ったような気がした。
恐る恐る振り返ると、そこには普段と変わらない母の顔があった――否、普段より、少し緊張しているかもしれない。
理由は、簡単だった。
それは、今日が『兄』がこの家にくる日だからだ。
詳しい事情を、可憐は知らない。知る必要もないと思っている。
ただ、自分には兄がいて――その人が今日、家にくるというだけのことだ。
それでも・・・気にはなる。
兄が、いったいどのように変わったのか。
期待とは少し違う、気持ちの高ぶりがある。
だが、今の可憐にはそれよりもずっと気になることがあるということだ。
「どうしたの?緊張しているの?」
母が尋ねてきた。
やはり、母の目から見ても、今の自分は落ち着いていないのだろうか?
「う、ううん・・・何でもないよ、お母さん」
可憐は慌ててかぶりを振った。
できるだけ、動揺が表情に出ないようにする。
ずいぶんな重労働だったが・・・
「無理しなくてもいいわよ。母さんだって緊張しているもの。何せ、直接会うのは七年ぶりだもの」
七年前――
可憐にその当時、三歳の頃のはっきりとした記憶はない。
ただ、何となく・・・記憶の片隅では覚えている。
いつも、自分の手を引いてくれていたその人のことを。
確か・・・自分はその人の笑った顔がとても好きだった筈だ。
「・・・お兄ちゃん・・・」
呟いてみたところで、実感はわかなかった。
無理からぬところだろう。
実際に兄妹として過ごしたのは、たった三年間でしかないのだから。
可憐は時計を見やった。
もうすぐ正午。
兄がくる約束の時間になる。
だが、それと同時に――
「ご飯・・・」
「ん?何か言ったか?」
今度は父が尋ねてきた。
どうやら、知らず知らずのうちに言葉が漏れてしまっていたらしい。
可憐は、先ほど母に対してしたのと同じようにかぶりを振って答えた。
そして――
その時、玄関の呼び鈴が鳴った――
その少女――妹の姿は、記憶の中にあるそれとはずいぶんと変わっていた。
もちろん、曖昧な記憶ではあるのだが・・・
それでも、はっきりと違うと言えることがある。
妹――可憐はこんな暗い表情はしていなかった筈だ。
・・・何か、心配事でもあるのだろうか・・・?
久しぶり――といっても、ほとんど覚えていないが――に会う兄は、当然といえば当然だが、ずいぶんと大人っぽくなっていた。
もう十五歳になったと言っていた。
面影など、見出せる筈もなかったが、それでも可憐には彼が間違いなく兄なのだということがわかった。
理由は――とても簡単なことだ。
感覚が――どこがどうとはいえない感覚が、幼い頃に感じていたそれを同じだったからだ。
言い直せば、兄が纏っている雰囲気とそれに対して可憐が抱く感情が――というところだろうか。
――安心感――
「――だったわね。元気で、やっている?」
今、兄は母と楽しげに話している。
それと対照的に、可憐は落ち着きなく視線をあたりに彷徨わせていた。とりわけ、窓の外に。
「はい。今は、高校受験で少し大変な時期ですが・・・」
少しだけ・・・兄が母に対して敬語を使っているいることが悲しいように思えた。
同じ家族である筈なのに・・・
畏まらなければいけない関係・・・
「まぁ、それほど高望みをしているわけではないので、周りが騒ぐほどには、本人は焦っていないんですよ」
だが、そんなことを気にした様子もなく、苦笑めいたものを浮かべて、兄が告げた。
チチチチ・・・
窓の外で鳥の鳴く声がした。
可憐は反射的にそちらに目を向けた。
そこには、テラスの手すりで羽を休めている鳥が数羽、何かを確認しあうかのようにさえずっていた。
瞬間。
可憐の脳裏に、あの時の光景が浮かんできた。
黒い鳥に襲われる小鳥。
そして、傷つき地に落下していく小鳥。
もし、今、この瞬間にでもあの子が同じように襲われていたら・・・
ガタンッ
可憐は音を立てて立ち上がった。
一斉に、母と父、そして兄の視線がこちらに集まった。
「どうしたの?可憐」
「ご、ごめんなさい、お母さん」
可憐は訝しげに尋ねてくる母に、軽く頭を下げた。
「可憐、急用を思い出しちゃって・・・それで・・・」
ちらっと、横目で兄を見やる。
だが、兄だけは母や父とは違い、訝るような視線をこちらに向けてはいなかった。
そして、可憐の視線に気づいた兄は、にこっと笑って小さく頷いた。それから、片目を瞑ってみせる。
――行ってもいい――
ということだろうか?
兄の考えはわからなかったが、とりあえず可憐はそう解釈することにした。
「――だから――ごめんなさい!」
そして、可憐は駆け出した。
兄たちを残して。
寒空の下へと、部屋着のままで飛び出していく。
突き刺さるような寒風が身体に堪えるが、今は一刻も早くあの子の元に辿り着きたいという思いだけで可憐の心は一杯だった。
――やっぱり何かあるんだな――
先ほどの妹の態度を見て、それを確信していた。
しかも、それが彼女の両親でさえ知らされていないということも。
ゆっくりと席を立つ。
「様子を見てきます。――少し席を外します、すみません」
母と義理の父が引き止めるいとまもあらばこそ――一礼すると、妹を追って駆け出した。
「・・・よかったぁ・・・何ともなかったんだね」
可憐は自宅近くにある公園の隅で屈み込んで、安堵の息を漏らした。
その手の中では、傷つき飛ぶことができなくなった小鳥が、ぴぃぴぃと甲高い鳴き声を上げている。
やはり杞憂は杞憂でしかなかったが、それでも小鳥に何もなかったことが、可憐には嬉しかった。
今日も、またこの小鳥の元気――とは言えないのかもしれないが――な姿が見られたことが。
「うふふ・・・早く元気になって、また空を飛べるといいね」
可憐は小鳥に向かって語りかけた。
言葉が通じないことなど、別に何の問題でもなかった。
ただ、この傷ついた小鳥を優しく包み込んであげたい――そう思っているだけなのだから。
自由に空を駆けることができる、奇跡の翼。
今は傷ついている、小さな翼。
だが、きっとこの傷が癒えれば、この小鳥は再び大空に舞い上がることができるだろう。そして、見せてくれるに違いないのだ。
あの優雅で楽しげな、風と戯れる姿を。
「・・・ここは寒いね〜」
可憐は背筋を駆け上がってきた寒気に、身体を震わせながら、両手で小鳥を包み込むようにしながら、言った。
そして、紡ぎだした言葉でさえ、白く形を残して――消えた。
ファサ・・・
と。
不意に、背後から何かが肩にかけられた。
慌てて振り返ってみると、そこにはわずかに息を切らした兄が、微笑を浮かべて立っていた。
「――こういう事情があったのか」
兄は納得したように頷きながら、小声で呟いた。
そして、可憐の隣に屈み込んで、小鳥を覗き込んだ。
「怪我をしているのか?」
「う、うん・・・そう」
どうして緊張なんてしてるんだろう・・・?
可憐は胸中で呟いた。
緊張する必要なんか、全くない相手の筈なのに。
すると、兄は、何かを考え込むように、しばらくの間、黙っていたかと思うと――
「これからの季節に、ここに置いておくわけにはいかないな・・・」
そう呟いた。
「――よし。とりあえず、こいつを家に運ぼう」
兄の言葉は唐突だった。
可憐は一瞬、呆気に取られて兄の顔を凝視してしまった。
そして、慌てて視線を逸らすと、
「無理だよ。だって、お母さんは動物があまり好きじゃないから」
「それは俺も知ってる」
兄は微笑みながら言った。
確かにそうだろう。兄は母と八歳の時までは一緒に暮らしていたのだから。
「だから、俺も一緒に頼んであげるよ。一人じゃ頼みづらかったんだろ?」
図星をつかれて――可憐は思わず三回も頷いてしまった。
「母さんは、確かに動物が好きじゃないけど・・・だからってそれを理由に娘の――可憐の真剣な頼みを断るような人じゃないよ」
――可憐――
兄の口から、その名前が聞こえた時、不思議と可憐の中にあった言い表せない緊張感が、掻き消えていった。
まるで、その一言で、今まで離れて暮らしていた間にできた溝が一瞬で埋まってしまったかのように。
――否、もしかしたら、初めからそんなものはなかったのかもしれない。
ただ、可憐自身が知らず知らずの内に距離を置いてしまっていただけなのかもしれない。
「・・・お兄ちゃん・・・」
一端緊張が解ければ、その言葉を口にするのは実に容易かった。
そうだ。
あの頃のことなど、今さら詳細に思い出せるわけではないが・・・それでも一つだけ確かなもの・・・
可憐が、兄に対して抱いていた想い。
それだけが、今も、あの頃も、変わらない。
「な?」
兄が片目を瞑って尋ねてきた。
だから、可憐はそれに答えた。
「――うん」
もう二人の間に気持ちの隔たりは存在しなかった。
兄と妹――
あの頃の関係に戻ったのだ。
「・・・あの時も、こんな雪だったな」
兄が何気なく呟いた。
「うん・・・」
可憐は再び空を見上げた。
そして、近づいてきた兄の手を取る。
そのまま、兄の腕に寄りかかるようにしながら、可憐は横目で兄の横顔を見やった。
「・・・大好きだよ・・・お兄ちゃん」
その声が、果たして兄に聞こえたのかどうか。それはわからない。だが、確実に言えるのは、可憐がそう告げたということだ。
それは、可憐の口から流れた白い吐息が証明していた。
その日、辺りは深々とした冷気に覆われていた。
だが、可憐の手の中には、温かさがある。
何ものにも決して代えることなどできない、命の温かさがあった。
「――頑張ってね」
可憐はまるで我が子を世に送り出す母のような心境と声音で、手の中の小鳥に声をかけた。
「もう傷は治ってる。後は、こいつ次第だな」
兄は人差し指で小鳥の頭を突きながら、言った。
あの日――久しぶりに再会したあの日から、兄はこの小鳥のために様々な助力をしてくれた。
一緒に母に頼み込んでくれたこと。
小鳥が餌を食べなくなって元気がなくなった時には、突然連絡したのにも関わらず、急いで駆けつけてくれて、一晩中小鳥の面倒を見てくれた。
小鳥のための小屋も作ってくれた。
餌を獲る練習のために使う虫も捕ってきてくれた。
「ほら、泣くなよ、可憐。今日はこいつにとって喜ぶべき日なんだから」
兄は可憐の目に浮かんだ涙を指で拭ってくれた。
本当は・・・兄の方がつらいかもしれないのに・・・
だが、兄は全くそんな素振りを見せない。
そして、そのことが可憐を不安にさせる。
「・・・お兄ちゃん」
「見守ってやろう。それが、最後に俺たちができることだよ」
「うん・・・」
そして、可憐は両手を開いた。
これで、小鳥は飛び立とうと思えばいつでも飛び立てる状況に置かれたわけだ。
小鳥――安直だが、ぴーちゃんと名づけた――は、一瞬だけ戸惑ったように小首を傾げる仕草を見せたが、
次の瞬間には空に向かって飛び立った。
「――あ・・・」
止めたかった。
もう一度、この手の中にあの温もりを感じたかった。
このまま、ずっと飼っていたかった。
だが――
それはできない。
「・・・可憐」
あの子が――あの子がいるべき場所は、地上ではなく・・・
あの大きく広い、青空なのだから。
「きっと、元気でやっていけるよ」
兄が、可憐の肩を抱いた。
可憐は兄のその温もりが嬉しくて、そのまま身を委ねた。
だが、一つだけ気になることがあった・・・
そんな筈ないとは思いながらも、その答えを兄の口から聞かないかぎりは、どうしても安心できなかった。
「・・・お兄ちゃんは、悲しくない、の?」
だが、兄は笑顔で答えた。
「あいつは、可憐のことを絶対に忘れたりしない」
そして、兄は可憐の肩を抱く手に、少しだけ力を込めた。
「そう信じることができるからこそ、あいつとの別れだった悲しくない。あいつがいつまでも忘れないって信じられるから――離してやれる」
そう言った兄の顔は、とても――とても晴れやかだった。
「――あ――」
その兄の顔を見上げていた可憐の頬に――白い何かが舞い降りてきた。
初めは、それが小鳥の羽かと思った。
だが――違った。
それは、雪だった。
突然、空から舞い降りてきた、白い――雪。
「お兄ちゃん・・・雪、だよ・・・」
すると、兄も空を仰ぎ見た。
その兄の頬にも、雪が舞い降りる。
「――あいつからの、最後の贈り物かもな」
「――うん――そうだね」
兄の言葉に、可憐は静かに頷いた。
本当に、そうなのではないかと思えたから・・・
「――何か言ったか?」
尋ねてくる兄に、可憐はかぶりを振って答えた。
と。
その時――
ピー・・・
どこからか鳥の鳴く声が聞こえたような気がした・・・
終わり
SOMAさんあとがき
個人的には結構好きな話です。
タイトルから終わりまで、結構まとまったかな、と(笑
しかし、引きの部分が私らしいなぁ、と思ってしまいました。
どうもこういう終わらせ方が好きみたいです。