紫和泉子が着込んだスーツの右目には、他人の記憶を消し去る特殊な装置が埋め込まれている。

特定の光パターンで閃光をちらつかせる事によって、脳内に刻まれた神経を部分的に切断しているのだ。

だが、思い出を消し去る行為は決して軽い物ではない。

何故ならば、一度でも奪った記憶を修復する事は不可能で、言うなれば和泉子の力は一方通行だった。

嫌な事も、否定したい事も、全てを無かった事に出来る力。

だからこそ、和泉子は極力それを使わずに済ませられるよう、自らの行動を意思によって縛り付けた。

朝倉純一と言う人物と出会い、次第に仲が親密になるにつれて、和泉子は喜ぶ反面で恐怖していた。

素顔を晒け出せない事が不安感となって、何度もその重圧に押し潰されそうになる。

本当の姿の和泉子、一般の生徒が見ていた背の高い和泉子、そして純一が見ていたクマの和泉子。

まるで三つの人格を使い分けながら過ごしているようで辟易するが、スーツを脱ぐ事は即ち死へと繋がるのだ。

ひたひたと押し寄せる寒気に耐えながら、故郷へと戻るための宇宙船は無事に完成を迎えられたのは奇跡だろう。

そして和泉子は、自分なりの最後の覚悟として封印を解いた。

それは初音島に住まう人々全員の記憶から、「紫和泉子」と言う人物の存在を抹消すること。

胸に打ち込まれた傷も、誰にも認められずに去る事に対しても、全ての責任は背負うつもりだった。






ワープの構造原理とは空間を歪ませて、その間にある場所をすっ飛ばす事にある。

瞬間的な加速で分解しない程度の強度は持ち合わせており、スーツを着ていれば衝撃も軽減出来る。

耐熱、対防水、対ショック加工のガラスの向こうでは、見まごう事なき青い惑星が迫っていた。

経度と緯度のデータを打ち込み、座標を正確に指定さえすれば、着陸時の誤差は最大でも数メートル程度だろう。

和泉子は装置の中枢部分をマニュアル通りに操作して、機体を自動操縦に切り替える。

数秒後に、正常に処理された事を示す青ランプが点灯したのを見て、和泉子は床にへたりこんで笑った。

地球時間に換算して、あれから約三ヶ月余りが経とうとしていた。

帰郷してから、地球への親善大使として任命された日は、喜びのあまり興奮が冷めやらなかった事を思い出す。

レポートの結果が非常に評価され、異人種と友好関係を結んだ事に関しては特に関心が集まった。

あれやこれやと混乱しているうちに、もう一度地球へ行って欲しいと依頼され、和泉子はそれを即座に承諾したのだ。

会える、また、もういちど。




様々な感情が入り混じって脳裏で暴れまわり、やがてそれは屈託の無い笑みへと変化していく。

そして剥き出しの純粋な想いは、奔流となって胸からとめどなく沸き立ってくるのだ。

心臓の動悸を抑えながら、ゆっくりとだが、しかし確実に距離を詰めている地球を楽しげに見つめる。

彼と再会した時には、思いっきり抱きしめてやろうと、和泉子は思った。

その刹那、視界がひしゃげて宇宙船が最後のワープに入った事を振動と共に告げた。






反重力を最大限まで高めて、小型の宇宙船は桜公園の木々に緩やかに命中する。

お互いに運良く、折れる事も損壊する事もなく地面へと垂直に下り立つ事に成功した。

気候は快晴に加えて微風、そして時刻は午後の四時を三分後に控えている。

久しぶりの地球は新鮮で、前回と違って簡易スーツが支給されたおかげで動きは随分軽やかだ。

当然ながら対防水を施してあり、滅多な事では故障どころか傷すらも付かないものだと聞いている。

他に着目すべき所は、記憶を抹消する装置が、アクセサリーの右耳に内蔵された事ぐらいだろうか。

取り出して、相手に直接触れなければならなくなったのが不便だが、もう使う事もないだろうと和泉子は思う。

物思いにふけっているうちに、甘い香りが鼻へと飛び込んでくる。

言うまでも無く、それは桜公園の名物となっているチョコバナナなのだが、特に興味はなかった。

少しばかり空腹なのは確かだったけれども、以前に食べたシャケおにぎりの味が蘇ってくる。

唾を飲み込んで、純一と共に過ごした学園生活の楽しさを今更ながらに実感してしまう。

――同じ釜の飯を食った仲。

懐かしさと嬉しさが一緒くたになり、和泉子は緩みそうになる頬の筋肉を押さえる。

そうしてから、簡素な作りの腕時計に目を落とそうとした瞬間、まさにその絶妙のタイミング。

決して見間違うはずの無い、朝倉純一その人の姿が視界の隅に捉えられた。

こっそりと近づいて驚かせてやろうとか、そんな劇的な演出を考える程の余裕は残されていない。

だから気が付くと、和泉子は慣れない足取りで脇目も振らずに全力疾走していた。






「朝倉さんっ!」

突然の大声にふいを突かれたのか、純一は体を震わせて和泉子の方へと向き直る。

その顔には困惑が浮かんでいたのだが、それはきっと、動転しているに違いないのだと和泉子は解釈した。

眼前と形容するに相応しいぐらいまでに距離を詰めると、純一はたじろいで一歩後ろに下がる。


「朝倉さん、会いたかったです。また、また会えるなんて」

言葉とは裏腹に、純一はぽかんと口を半開きにしていた。

何が何だか分からないといった様子で首を傾げ、続いて発された言葉が、空気を切り裂いて和泉子の耳に届く。


「えっと・・・君、誰かな?」

たちの悪い冗談だと思った。

そう思おうとしていた。

否定しようと情けなく笑いながら口を開きかけて、和泉子の顔が歪んだ。

それはまるで、一生懸命組み立てて作った玩具の城を崩された時の感情に近いだろう。

大切な何かが、がらがらと容赦なく崩れていく空虚さや切なさ、そして何とも言えない悲しみ。


「多分、人違いだと思うんだけど。いや、君みたいに可愛い子と知り合いだったら嬉しいけどさ」

悲痛な表情を心配してか、冗談めかして純一は言う。

和泉子の全身から力が抜けていき、目の前が真っ暗一食で塗りつぶされてしまう。

記憶を消したんだから、覚えてる訳ないよねと自虐的に呟いてみると、胸の奥から何かがこみ上げてきた。

真っ赤に焼けた、熱の塊に近い何か。

それが喉元を通過して目元へとやってきた時、和泉子はついに堪え切れずに泣き出した。

目尻にたまった涙の水滴が、簡単に決壊して流れ落ちる。


「うわ、ごめん。泣かせるつもりはなかったんだけど、あぁ――」

慰めの言葉が次々と突き刺さり、それが更なる起爆剤となって目元から涙をこぼれさせる。

自らが記憶を消したのだし、原因を純一に押し付けられるはずもなかったのだが、和泉子は泣いた。

体中の血潮を全て涙へと変えて、それが枯れ果てるまで泣き続けたいと本気で思った。


「和泉子です。紫和泉子。風見学園の、三年生で、好き、な食べ物はシャケおにぎりで、それで」

何を言おうとしているのか、それは和泉子本人ですら理解してはいなかった。

押し殺していた感情の栓が引き抜かれ、ただ、途切れ途切れに意味不明な単語を並べていく。

そして何より、純一の心の奥底では、消したはずの記憶が実は眠っているのではないかと淡い期待をしていた。

だから、たとえ何が起ころうとも起こらなくとも、和泉子は泣くという行為を止められない。


「クラスでは無口だったけど、純一さんと話すようになって、一緒に話したり、食べたり、だから、だから」

喉が擦れている上に、涙声となると、それはもはや文章としての体(たい)を成していない。

これだけ詳しく説明を続けても、純一は和泉子に対するキーワードを何一つとして思い出さないようだった。

それは至極当然の事で、「思い出さない」のではなく、元々「ない」のだから。


「もし純一さんが私の事を忘れていても、それでも、私は、私は純一さんの事が好きです」

もう一度だけ伝えたくて、それでも言えなかった言葉を言い切った。

後悔はない。

変な奴だと思われようと、拒絶されようと、それでも良いのだと和泉子は笑った。

苦し紛れの作り物の笑みなどでなく、何の打算もなしに真摯な気持ちとしての表現。

その時。

純一の瞳から、一筋の涙がつぅーっと流れ落ちた。


「あ、れ?何だこれ、悲しくも何でもないのに、何で涙なんて――?」

和泉子は全てを悟り、そしてまた、今度は違う意味での涙を流した。

いくら記憶の一部を完全に破壊しようとも、その身に刻まれた感覚だけは消す事は出来なかったのだ。

意思とは全く別次元の、反射的な行動までをも制御できる程、あの機械は上等ではなかった。

つまりは、そういう事なのだ。


「嬉しいです。思い出してくれなくても、分かってくれなくても――」

和泉子は自分より幾分大きな体躯を持つ純一へと飛びつき、背中へ手を回して思い切り抱きしめた。

すぐさま拒否されると思っていたのだが、予想に反して純一の抵抗は驚くほどに弱い。

振りほどこうとする訳でもなく、無言のまま、目を閉じて思い悩むように空を仰いだ。

そうしてから、決心したように和泉子を抱き返す。


「おかえり・・・和泉子」
和泉子が涙でくしゃくしゃになった目元を拭うと、ぼやけてピントの合わない世界が展開される。

顔を少し引いて、それから、和泉子はゆっくりとお互いの唇を重ねた。

涙でしょっぱいキスの味は、まるでシャケおにぎりのようだった。





終わり

フクロウさんから頂いた




                                        
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