最後にお節介ですが――。
妹に操なんて立てないで、ちゃんと新しい恋人作りなさいよ。



世話焼きの妹より


抜けるような青空の下で、純一は音夢が最期に残してくれた手紙を読み終えた。

音夢の部屋に置かれた机の奥、誰にも見つからないよう、丁寧に折り畳まれて入っていた物。

受取人と差出人の住所は合致しており、その筆跡は確かに音夢のものだった。

極力思い出さないよう努力しても、昔の思い出が奔流として止めどなく流れてくる。

初めて自分に妹が出来た時の事や、家出した音夢を必死になって探しに行った事――。

時は流れ、さくらが帰ってきてからの数ヶ月間の楽しかった日々。

不幸な事も数え切れないほどあったけれども、それを越えて余りある幸福で満たされていた。

風見学園での思わず苦笑してしまうようなイベントも、もはや全てが過去の産物と化している。

音夢と結ばれた日も、初めて唇を重ねた日の事も、鮮明に脳裏へと焼き付いていた。

今となっては辛い思い出ばかりのはずなのに、そんな記憶ばかりが浮かんでは消える。




『さよならだね・・・兄さん』




どく、――ん。




絶対に思い出したくなかった、悲しすぎる一言が胸をざっくりと切り裂く。

今は無き桜の甘い香りと、舞い散る花びらが目の前に展開されているような錯覚を覚える。

もう、耐えられなかった。

熱くなった純一の目元から何かが溢れ、頬をゆっくりと伝う。

魔法の桜は、もう何処にもない――。




「好きです。 ずっと、――好きでした」




風の吹き荒れる屋上の校舎で、対面に向き合うことりが静かにそう言った。

片手にベレー帽を握りしめ、その赤い鮮やかな髪が、美しくたなびきながら舞っている。

凛としてこちらを見つめた両の瞳に恥じらう様子はなく、真意の程を読み取る事は出来なかった。

これが俗に言う告白と言うものなのだと、理解するのに数秒の時間を要した。




何かに切羽詰まったような、急ごしらえの告白。

そんな形容が見事に当てはまるような、ことりの態度と雰囲気。

こんな事を言ってしまうのは失礼だと思ったが、これはあまりにも失礼が過ぎる。

音夢が死――いや、居なくなってしまって間がなく、未だ精神状態が不安定な事ぐらいは想像がついただろうし、
だからこそ、もう少しタイミングを見計らっても良かったのではないだろうか。

当然の事だが、わかりましたと頷けるはずもない。




「他人の心を読み取れる力は無くなっちゃったけど――」




純一が口を開くより先に、ことりが言葉を発した。

テレビドラマの様に身を翻し、金網の向こうに広がる町並みを見やる。




「――朝倉君が何を思ってるのかぐらいは分かるよ。
私だって、こんな風に言ってる自分がどれだけ非常識だとか、失礼なのかって事はちゃんと理解してる」




純一に一遍の言葉すら挟む隙間を与えないまま、ことりは話を続けていく。

こちらに喋らせない事そのものが、実は純一に対する精一杯の優しさだったのかも知れない。

出来るだけ、深くまで突き刺さった心の傷を開かせないように。

それは、まるで――。

ゆっくりと振り返ったことりの姿が、元気だった頃の音夢の姿と被さって見えた。

顔付きも髪型も、外見で似ている部分なんて何一つないはずだと分かり切っているのに。

他人を誰かと重ねて見ることが、どれ程愚かな行為であるかも理解していたはずだった。

この胸の高鳴りは、単に心のより所を求めているだけなのだと、無理に自分を納得させようとする。

本当にことりが好きなのではなく、失意の底から手を差し伸べてくれる人間が欲しいだけなのだと。

そんな純一の気持ちとは裏腹に、ことりは風を身に纏うようにしながら闊歩してくる。




「・・・俺は」

それだけ言って、言葉に詰まる。

元々静止を促す意味しか含ませていなかったので、何を言っていいのか分からない。

堂々とした態度を取ろうとすればするほど、額から嫌な脂汗が滲み出てくる。




長い沈黙が辺りを満たし、お互いに言葉を発する言葉もなく、時間だけが流れる。

そうして、純一は永遠と広がる青空を見上げると、ゆっくりと目を閉じた。

向こうから声をかけてこない事からして、こちらの反応を待っているのだろう。

ならば、何らかの答えを出してやる必要がある。

「ことり、俺はお前の事が――」

轟々と吹き付ける風の音が、純一の言葉を全てかき消し霧散させていく。

遠く離れた桜公園で、花びらを散らした桜の樹が、寂しそうに身を揺らしていた。








「よぉ、ことり」

「純一君、おはようっす」

桜舞い散る校門の前で、純一はことりの特徴的な帽子を目で捉えると、そう挨拶した。

あの日から、何度も繰り返してきたこの会話は、もはや日常の一部として定着している。

名字で呼ばれるのではなく、下の名前で呼ばれる様になったのは、いつの事だっただろうか。

最初はお互いに固さが見え隠れする付き合いだったが、もう完全に打ち解けている。

そう、――二人は恋人となったのだから。

ふと見つめたことりの帽子に、桜の花びらが一枚だけ付着していた。

待ち望んでいた春が、初音島へと到来した。

無惨に禿げた枝だけを晒していた桜も、徐々に色づきを始めつつある。

音夢との記憶は薄れゆくどころか、ますます胸を痛ませる追憶のものとして深く刻まれていた。

初音島を覆った魔法は消えてしまったとは言え、純一の心の奥底では、僅かばかりの希望と期待が胸を少しずつ満たしていくのを感じ続けている。

さくらはうたまると共にアメリカへと帰国してしまい、全ては変わらぬ平凡な日常へと帰結した。

それでも、まだ何処かに魔法が残っているのではないだろうか。

そんな、――夢みたいな望み。




屋上でのことりからの告白は、純一の人生を変えたと言っても過言ではない。

こうして今存在しているのも、あの時を境に絶望の淵から立ち直れたからなのである。

包み隠さず言うならば、自分はまだ音夢に対して吹っ切れてはいない。

未練がましい事を言うようだが、今でも音夢の事は好きだし、それは今後もずっと変わらない。

屈託のないことりの笑顔に時たま心を揺さぶられながらも、それだけは断言できる。

「今日辺り、どう?」

「・・・そうだなぁ。 だけど、本当にそれで良いのか?」

「もちろん。 それを納得した上で、私は純一君と付き合ってるんだから」

「――そっか」

純一は歩みを止めないままに空を仰ぎ、両手を頭の後ろへ添えながら、大きく息を吸い込む。

心地よい風の流れと共に、桜の香りまでが全身に強く感じられた。

何処までも澄んだ青空に、まばらに浮かぶ白い雲。

一体どれだけの人間がこの空をこうして見上げ、何を思ったのだろうか。

ふとすると、空と言う名のスクリーンに、音夢やさくらの顔が次々に浮かび上がってくる。

何故かどれも幸せそうに笑っている顔ばかりで、それがまたたまらなく、やるせなかった。

やがて、二人が踏み入った桜小道。

濃厚な桜の香りがつんと鼻をつき、鮮やかな花びらが、驚くほどゆったりと舞っている。

自然と手を繋いだ二人は、散りゆく桜に溶け合うように、小道の向こうへと消えていった。





                七夕物語


昔々ある所に、織姫と言う名の天帝の娘が住んでいました。
毎日毎日、明けても暮れても旗織りばかりに精を出していたのです。
ですが、化粧や着飾りには全く興味を示さず、見向きもしませんでした。
天帝はそんな織姫を憐れみ、ある一つの試みを行います。
天の川の対岸に住んでいる、働き者の牽牛へと嫁入りをさせるのです。






「もう・・・少しだね」

「秘密基地の場所なんだ、忘れる訳がない」

放課後、家に帰宅してすぐ、純一は待ち合わせ場所である桜公園へと向かった。

ことりまで巻き込む必要はないと思ったのだが、来ると言い張って結局折れなかったのだ。

向かっている先は、言うまでもなく枯れてしまった魔法の桜。

あれ以来、一度も近づいていなかっただけに、どのような変化を遂げているのか想像も付かない。

単なる一本の桜として、その身に鮮やかな花びらを纏っているのだろうか。

また、力を使い果たしてしまい、未だに枯れた状態を保っていると言う可能性も考えられた。





織姫と牽牛は瞬く間に仲良くなりましたが、全く働かなくなりました。
機を織ることも、田畑を耕す事もしないようになったのです。
これに怒った天帝は、織姫を連れ戻してしまいます。






空を見上げる。

オレンジに染まった夕焼け空が、桜に反射して奇妙なコントラストを形成していた。

輪廻の様に変わりなく訪れるこの時間には、いつも音夢の事を思い出してしまう。

屋上で永遠の別れを告げられた日も、湿っぽさが似合わない美しい夕焼け空だった。

それ故に、焼き付いてしまって離れないのだ。

あの時、音夢が振り向かなくて本当に良かったと思う。

恋人として、多方面において打たれ強い事を強調しようとしてきたが、それは見栄に過ぎない。

あれだけの絶望と恐怖を背負いながら、必死に生き続けたのは――音夢の方だ。

手紙では強がりを言っていたけれども。

人間は弱い。

音夢も自分も、まだまだ未熟な存在だったのだ。

だからこそ、――忘れないでやろうと誓った。

心の中で誰かの事を想い続ける限り、その人が本当の意味で死を迎えることはないのだから。





ですが――。
悲しみに嘆く二人を見て、天帝は考えを改めました。






「着いた、よ」

「すげ――ぇ、な」

弱々しい姿を想像していた事もあったが、そんな考えは全て杞憂だった。

あの時にも増した雄々しさを以て、桜の樹は更に大きな成長を遂げていたのだ。

思わず目を奪われてしまう様な神秘的な光景に、純一とことりは唖然として言葉を発せずにいた。

純一の中で、確信にも似た何かの感情が沸き上がる。

これは紛れもなく、――魔法の桜だ。

幻想でも、夢でも構わない。

音夢に会いたいと言う気持ちだけが先行して、胸を高鳴らせていく。

二人の人間を平等に愛していこうなんて甘い考えが、通用するとは思っていなかった。

片方を犠牲にして保身に走る事が可能でもある、逃げ道だらけの選択はもう嫌だった。

こうして目の前にそびえる桜が、魔法の力を持っているかを判別するだけの能力はない。

たとえそうだと仮定するにしても、音夢と出会えるなんて確たる保証は、何処にも存在しないのだ。





1年に1度、7月7日の夜にだけ――。





恋人としての義務感や何やらと言う感情は、この場に相応しくない。

ただ、純粋に――会いたい。

これは桜が咲き誇る、春に起こった一つの奇跡。

純一とことりの目の前で、桜が溢れんばかりの光を放出し始めた。

瞼の裏までもが焼け付き、全てが白一色へと塗りつぶされていくような感覚。

五感の全てが奪われていく時の中で、純一は確かに妹の声を聞いた。





二人は会うことを許されました――。





終わり

フクロウさんから頂いた




                                        
そして始まる物語
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